わが子の乳歯が抜けたら、昔は下の歯は屋根の上、上の歯は縁の下に投げ込む風習が一般的だった。現在では、住環境も変わってマンション住まいの人も増え、そのまま捨ててしまうケースが大半なのではないだろうか。ところが、すぐに捨てない方がいいのかもしれない。というのも、現在は再生医療の技術が進み、乳歯や親知らずが将来病気になった時の治療や、医療の研究に役立つ可能性が出てきたからだ。折しも、6月4日から「歯と口の健康週間」に入った。「抜けた歯」を用いた再生医療の可能性について取材してみた。(医療ジャーナリスト 木原洋美)
乳歯と親知らずは再生医療に役立つ
「お母さん、歯抜けたよ」
息子(7歳)が、抜けたばかりの小さな歯を見せてくれた。
「ホントだ、じゃあ下の歯だから屋根の上に投げようか。永久歯が、丈夫にすくすく生えてきますようにって」
「上の歯は縁の下なんだよね」
「そうよ」
「でもさ、マンションの子はどうするの。屋根も縁の下もないよね。屋上とか地下室があるマンションもあるよね。タワーマンションの子なんかすごいことになるよね。どうするの」
「うーーん……」
子どものいる家庭では、普通にありそうなこんなやりとり。昔は当たり前のように行われていたことも、なかなかできなくなるご時世だが、愛しいわが子の乳歯、ただ捨ててしまうのは胸が痛むし、かといって記念にとっておいてもあまり意味がないような気がする。
ではどうしたらいいのか。実は昨今、乳歯と親知らずには、格好の引き取り先が準備されているのをご存じだろうか。
「歯髄(しずい)細胞バンク※1」だ。
預け方は2通り。1つは、本人や家族が将来再生医療を必要とする病気にかかった場合の備えとして、有料で保管してもらうバンクのようなスタイル。もう1つは、創薬や研究など再生医療の発展に利用するために、「献血」ならぬ「献歯※2」として、無償で寄付するスタイルだ。
2008年に日本で初めて「歯髄細胞バンク」を立ち上げた。株式会社セルテクノロジーの大友宏一氏(代表取締役)に話を聞いた(※1、※2は同社が登録商標を取得している)。
向いているのは若く健康な時期の歯髄
——乳歯や親知らずが、再生医療に役立つとはどういうことなのでしょうか。
「役に立つのは歯髄といって、硬い組織(象牙質)に囲まれた歯の中央部にある、血管や神経を含む軟らかい組織(結合組織)です。この歯髄の中にいる間葉系幹細胞(歯髄幹細胞)がすごい。取り出して適切な環境で増やし、さまざまな病気やケガの治療に役立てる研究が進んでいます。
特に、抜いた(抜けた)乳歯や親知らずの神経(歯髄細胞)には、骨髄細胞や臍帯血に勝るとも劣らない元気な幹細胞があり、治療への応用範囲も広いことから、有料でお預かりする「歯髄細胞バンク」事業をスタートしました。並行して、難病や救命医療などの再生医療に役立てる目的で、乳歯や親知らずを無償でご寄付いただいて備蓄する、『献歯』のボランティア・プロジェクトも展開しています。
一方、実用化研究は、九州大学、京都大学、愛知学院大学等の研究機関や第一三共、エーザイ等の製薬企業との産学連携で取り組んでおります」
——骨髄や臍帯血からではなく、抜けた(抜いた)歯から採取するメリットはあるのでしょうか。
「第一に、身体的な負担の軽さと採取機会の多さです。従来、再生医療のために幹細胞を採取するのは、臍帯血や骨髄からが一般的でしたが、骨髄からの採取は身体に対する負担が重く、臍帯血は出産時にしか採取チャンスがありません。しかし、乳歯や親知らずなら、身体への負担は軽く簡単な上に機会も多い。また、歯髄細胞は細胞の増殖能力が高く、歯という硬組織にガードされているので遺伝子に傷がつきにくく、iPS細胞(全身のあらゆる細胞に変化できる万能細胞)を作り出すことも可能です」
——登録、保管はどのようにするのですか。
「乳歯がぐらついてきたら、お近くの提携歯科クリニックで抜歯していただくのが最良ですが、ご自宅での自然脱落乳歯を、専用容器に入れてお送りいただいても結構です。ただし、クリニックでの抜歯に比べ、感染などの理由で細胞が増えない可能性もあるのでご了承ください。提供もしくはお預かりした歯は、弊社にて、細胞の発育状態を確認しながら培養し、一定量まで増やした後、マイナス150度以下の液体窒素タンクで凍結保管します」
——預けられるのは乳歯だけ?永久歯ではダメなのでしょうか。
「有料の歯髄細胞バンクについては年齢制限を設けていませんので永久歯でも可能です。細胞保管の成功率は約8割で、残りの2割は虫歯の進行状況で細胞培養が難しいケースです。永久歯は乳歯と比べ、細胞培養の成功率が若干低い傾向があります。ちなみに、細胞保管が難しい場合の費用は一切発生しません。
一方、『献歯』として収集し、備蓄する歯については、乳歯および20歳以下の方の親知らず限定にしております」
「幹細胞」は、いわば「細胞のタネ」。分裂して同じ細胞を作る能力と、別の種類の細胞に分化する能力を持っている。大人よりも子どものほうが傷の治りが早いことでも分かるように、幹細胞は加齢とともに急激に減少し、かつ衰えてしまうため、再生医療に使用する幹細胞は、できるだけ若く健康な時期の歯髄から採取することが望ましいのだ。ゆえに、『献歯』で収集する歯も、フレッシュさを重視し、年齢制限が設けられている。
脊髄損傷、脳梗塞等"神経"の治療に威力
——備蓄した歯髄細胞の現在の使い道は。
「これまで歯髄細胞を使った治療は数例あり、いずれも一定の効果が得られています。中でも、脊髄損傷治療への応用が注目されています。2年ほど前、31歳の男性が、自分の親知らずの歯髄を使い、脊髄損傷の再生医療を受けました。たった2回の注射と点滴で、2億5000万個の幹細胞が体内に移植され、19歳で事故に遭って以来、感覚も運動機能も麻痺していた身体に、まずは感覚が蘇り、補助器具を付けた状態で立ち上がれるまでに回復しました。
◆歯髄細胞を用いた再生医療の治療領域
脊髄損傷のほかにも、脳梗塞や脳性まひなどの中枢神経疾患やアルツハイマーやパーキンソン病の神経変異性疾患の治療など、病態解明から治療薬の開発まで、多くの研究機関がしのぎを削っています。
最新の研究では、虫歯の神経を取った後の空洞に、歯髄細胞を注入すると歯が延命できる臨床研究が成功しています。早期に実用化になるでしょう」
脊髄損傷の治療では、iPS細胞による再生医療の研究が進んでおり、そちらも実用化されつつある。歯髄細胞からのルートで治療が可能になれば、治療の選択肢が増えることになり、患者としてはだいぶ希望が膨らむ。
また、じわじわと自分の歯がなくなりつつある世代にとっては、「歯の延命が叶う」のは、相当な朗報なのではないだろうか。何歳までも、自分の歯で噛める時代が、案外早く現実になるかもしれない。
——応用の幅はかなり広いようですが、白血病の治療にも使えるのでしょうか。
「使えません。幹細胞は私たちの身体に200種類ぐらいあると言われていますが、同じ再生医療に使うにしても、それぞれの幹細胞で病気によって得手不得手があります。
白血病の治療に向いているのは骨髄や臍帯血のなかの造血幹細胞、歯髄細胞は歯科治療や脳梗塞などの神経疾患、リウマチなどの免疫疾患、肝臓や腎臓などの臓器不全疾患などに向いています」
——歯髄細胞にも血液型と同じように「型」があると聞きます。
「HLAと呼ばれる白血球の型が細胞の型です。骨髄移植などで『ドナーが見つからない』『拒絶反応が出た』というのはこの型のことです。数万通りもある上に、血縁者でもなかなか一致しない場合があります」
——今現在、どれくらいの型を収集済みなのでしょうか。
「すでに日本人の76%以上をカバーできる型を集め終えました。それだけの型を集めるには、理論上、10万人のドナーが必要とされています。しかしうちは数千人から見つけ出しました。効率よく集めるノウハウがあるのです。というのもHLAの型は遺伝子なので、この型は関西エリアに多いとか島根県に多いとかいうことが、収集を進めているうちに徐々に分かってきたからです。そこで、全国に1700件ある提携歯科にお願いし、特に欲しい型がありそうなエリアで重点的に集めていただくことで、わりと効率よく見つけることができています」
なるほど、歯髄細胞バンクの大いなる可能性はわかった。だが、気になるのはやはり料金だ。こちらは、最初の10年間が30万円、11年目以降は、10年間あたり12万円かかる。利用者はほぼ、「将来、お子さんや自分の身体になにかあったときの備え」として登録しているらしい。保険のような感覚だ。
一方『献歯』は無料だが、さまざま創薬・研究に使用することへの同意を求められる。氏名、性別、年齢等の個人情報は一切外部に開示されない。それにしても、結構な高額だが、片や無料、片や10年間で30万円。これだけのお金をかけて自分や子どもの歯髄細胞を預けておくメリットはどこにあるのだろう。
——利用者が、高い金額を払ってでも、有料の『バンク』を使うメリットはあるのでしょうか。
「再生医療で自分の細胞を使うのは『自家移植』、寄付された細胞を使うのは『他家移植』と呼びます。他家移植でも型さえ合えば使えますが、拒絶反応はゼロではありません。そこをどう考えるかですね。自家移植なら、拒絶反応はゼロですから。
私たちが、寄付された歯髄細胞の使い道としてめざしているのは、健康保険で使用できる治療薬等への応用です。研究はかなり進んでおり、すでに火傷治療用の培養シート(皮膚)が5年も前に保険診療の適用になっています。ただし、保険が適用されるのは、生死にかかわるような大火傷の場合です。本人の皮膚を培養しての自家移植だと、1ヵ月以上も時間がかかるため、移植可能になる前に半分近い方が亡くなっています。それでは遅いので、最近は、他家細胞製品を使うのがトレンドだと聞いています。しかしながら、他人の細胞を使うには、未知の危険性があることは否めません」
◆「歯髄バンク」と「献歯」の"使い道"
つまり、「安全性」が担保されるか否かと「公共性」の有無が両者の違いのようだ。将来、提供した歯髄細胞を利用しなければならない事態に直面する頃には、「安全性」の問題はクリアされていることを期待したい。
医学の進歩により、今や乳歯・親知らずのほかにも、手術で切除したがん組織や血液、尿等々、従来は"捨てていた"身体のあれこれが、人類の健康の役に立てられようとしている。こんな"お宝"、粗末にしたらもったいない。
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